重機節物語(重機工業学校非選定の不思議な重機節)

横田和夫(重機5期、世田工2期、昭和24年度電力課程卒)【横田氏は2020年亡くなられました】

都立世田谷工業高校は、未だ東京都が東京府であった頃の昭和15年(1940年)に、文京区本郷の府立工芸学校の場所を借りて府立第2機械工業学校として発足し、直後に府立重機工業学校となりましたが、当時 、府立(公立)の工業学校といえば工業立国たる国の政策上から、私立にくらべて質実剛健で教育レベルも高いと言われたこともありました。
 ご多分に漏れず、府立重機工業学校は旧制小学校の”中の上”レベルの生徒が集まりました。
 それも、重機1~2期生位は東京の中心部である文京区付近からの生徒ですから、優れた生徒が多かったようです。
 さて、日中戦争、太平洋戦争のため、生徒は全て学徒動員とか勤労動員と称して、兵器、航空機、戦車、軍事製品の工場で働くことが義務付けられ、肝心の学校へは1ヶ月に1~2回程度 しか通学出来ませんでした。
 そして、時間があれば軍事教練といって、兵隊の準備訓練をやらされ、たまには親兄弟、親戚の兵隊さん(当時は普通、兵隊には”さん”の敬称を付けました。)と話し合うことも屡々でした。
 兵隊さんは、国のため、国民のために戦う戦士であり、当然、その組織である大日本帝国軍隊は神聖、かつ聖域といわれましたが、聴くと見るでは大違いで、それはそれは野蛮な教育と無理難題の多い特殊社会でもあったといわれ、徴兵制度で一般人が兵隊さんになれば毎日が愚痴のこぼれるような訓練の連続といわれました。
 そこで、口ずさまれた、嘆き唄に”兵隊ひかれ節”と言うのがありました。
 これは”こんなはずではなかったが”といった戯れ唄でもあります。
 さて、重機工業学校に入学したものの、毎日毎日工場で旋盤まわしや重労働、学校へ出れば米軍の空爆と、それは大変で”命あっての物種”の教育実習を受け、当然、学校の校歌など制定されていませんでしたし歌う場所も必要性もありませんでした。
 そこで、重機1期生あたりが作詞(?)して前述の”兵隊ひかれ節”を採曲した”重機節”が歌い継がれ、校歌を知らない重機卒業生も”重機節”には愛着が有るようです。
 重機の先輩が、14~15才のころ創ったにしては、なかなかの秀作なので、吾が同窓会と在校生の皆々様に広くご紹介申し上げる次第です。

府立重機工業学校非選定”重機節”

府立の看板に 騙されて
うちの親父に タコ吊られ
ボロで名高い ボロ市の
鬼の住むよな 世田谷の
ここは 府立の 重機工

父と頼みし 校長さん
母と頼みし 担任も
兄と頼みし 上級生
一夜 明ければ 鬼となる
4月5月も 早や過ぎて
6月7月 夢の間に
年に一度の 夏休み
校長に騙され 勤労奉仕
とった お金は ネコババア

生徒があんまり 騒ぐので
とうとう校長も あきらめて
電車 賃だけ くれました
お金貰った 嬉しさに
校門前を 駆け足で
前のくそだめ 右に見て
桜並木を 過ぎゆけば
やがて 着いたは 成城駅

一番電車に 乗り遅れ
二番電車は 満員で
三番電車は 急行で
四番電車は 貨物車で
五番 電車に 乗り込んだ