世田工OBが卒業後、各分野で、健闘していますよ、という話を以前から、断片的に耳にしました。弁護士、大学教授、音楽家などなど。昨年くらいから、時々開くOB会で、話題に上りました。卒業生にインタビューして順次紹介しましょうか、という話が浮上しました。成功したOB だけを取り上げるのは避けましょう、なるべく幅広い分野からと言う意見も出ました。
当面、朝日新聞社の記者を長く務めた川上湛永(かわかみ・やすひさ)が、取材に当たることにします。
第4回 丸山 光男 さん (昭和38年電気科卒業)

川上
丸山さんは、今年、78歳とお聞きしましたが、東京・杉並区出身で様々な経験 をなされ、時代を映すような生き方をしてこられたという方ですね。
丸山
世田工では、電気科2組でした。杉並区和泉に住んでいました。自転車通学でし たが、昭和35年から、バイク通学です。バイクの分解、整備も手がけましたね。3年生 のとき、モトクロスにも挑戦しました。 部活では、柔道部に入りました。三越デパートの屋上で開かれた東京都少年大会で毎回1~3位に入賞しました。現在四段です。柔道の道に進もうかもとも思いましたし、大学にも進もうかとも思いましたのですが、自分の好きなことをやろうと決めました。
ちょうど東京オリンピックが始まり、読売、毎日など新聞社の原稿運びのアルバイトをやりました。もちろんバイク使用です。その後、川崎オートバイに誘われましたが、バイク屋の父親から、俺の仕事を手伝え、と言われ、ホンダの四輪車をたくさん売りまして、売り上げで、関東地区で47番になったこともありましたね。 昭和63年に、ホンダディラーのショールームを出しました。ホンダは、50ccから500ccで世界チャンピオンにもなりました。F1でも世界チャンピオンにもなった。アメリカでもホンダ人気は高かった。昭和55年、56年には、シビック等の売り上げで1億円になった。 その頃から、経済の右肩上がり、モータリゼーションの波に乗って、バイク、自動車が 売れました。消費者も3,4年で買い換えてくれましたが、いまは10年経っても、乗り 換えない。
川上
修理技術の習得は、独学で学ばれたと聞きましたが。
丸山
バイクなどの修理技術は、独学で学びました。本を読み、自分でバラして覚えま した。小学4年生のころから、鉱石ラジオの組み立ても、自分でやっていました。パソコンも、独学で基礎を学んで、プログラムも組みます。
川上
それは大したものですね。持って生まれた才能で、誰にでもできることではありません。ところで丸山さんは地域の防犯活動も、28年前から取り組んでいて、生活の一部になっているそうですね。
丸山
私の住む杉並区の高井戸警察署管内では、18年前頃から、犯罪が増え、私は防犯に関わる行政の委員会メンバーとなり。地域の安全・安心について様々な提言をしてきました。ホンダ販売店経営の先頭に立って頑張っていたころは、少年院を出た子を数人預かり車やバイクの整備を学ばせて、更生して中には独立した人もいます。 住民による地域活動の夜回りを始めています。地域にとって大事なことだと思って、私も高井戸防犯協会長として、率先して参加しています。この間、警視総監賞を12回ほど受けています。 ボランテイア活動は地域住民の絆を広め、結束を強めます。災害などいざという時にも役立つ大事なことです。しかし、防犯活動と商売とは一切関係ありません。商売を永く続けてこられたのも、地域の皆さんのおかげと思っています。
川上
丸山さんは、本業も忙しいが、地域の防犯活動に加え環境美化運動にも、長年、尽力されていますね。
丸山
そうですね、6、7年前からですが、環境美化運動、特に民有地、学校などでの花壇作りなどに力を入れています。神田川のクリーン作戦もその一つです。 神田川は、井の頭公園を水源に、環状8号7号線道路をくぐり、新宿、お茶の水を経て、東京湾へと流れていますが、ゴミ拾いなどはじめ、美化運動に取り組んでいます。今では鯉などいろいろな川魚や鳥を見ることができます。
川上
割れ窓の理論、ということをおつしゃっていますが、どんなことですか。
丸山
アメリカの犯罪学者が提言した理論で建物の割れた窓を放置しておくと、いつの間にか他の窓ガラスも全部割られてしまう現象に例えたものです。実際のところ一か所にゴミなどを捨てたまま放置しておくと、ゴミや放置自転車等どんどん捨てられていく。環境が悪くなると、ゴミも増え、やがて犯罪の多発につながるということです。落書きも同じで、消さないとどんどん広がる。公共物への落書きを止めさせる環境美化活動は大事です。この活動を小中学生など子供たちも巻き込んでやる、継続性が大事です。私は、杉並区高井戸警察署管内に住んでいます。50町会ありますが、地道な努力を続けてきたので、春休み、夏休み、冬休みには小中学生も手伝ってくれ、町内会のパトロールにも参加してくれるようになっていますね。 嬉しいことで、健康をかねて体が動く限りこれからも続けてまいります。

先頭の長身が丸山氏
第3回 内田 勝一 さん (昭和40年機械科卒業)
世田工を出て、早稲田大学の教授、名誉教授、そして副総長にもなられた世田工OBが、おられる、という情報を得た。内田勝一(うちだ・かついち)さん。
ウエブのウイキペデイアを見ると学歴には東京都立世田工業高等学校付属中学校卒業、東京都立世田谷工業高等学校機械科卒業とあり、堂々の世田工出身者。その後、法学者として卓越した業績を上げられ、国際的な学術と学生の交流に力を注いできたことを知ることができる。
早速連絡をとり、12月6日午後3時、大学校内の国際部でお会いする約束をした。実は、筆者も世田工を卒業、早稲田大学政経学部に進学したOBだが、当日、国際部の新しいビルがわからず、構内をうろうろ。高校生らしき数人の集団に、道案内をしてもらった。なんと、当日午前、熊本からきた修学旅行の一団だった。
国際部の内田先生のお部屋で、1時間余、お会いした。実は、何年か前、内田さんが教授のころ、お会いしたことがあるが、穏やかな風貌は変わらなかった。

―世田工からなぜ早稲田大学に進学したのですか。
小学校の先生に、苦しい家計でも高校だけは出た方がいいと、中学のうちから高校進学が確保される付属中学への入学を勧められ、そうしたのです。けれども、工業高校だから、実習がある。機械科でしたので、旋盤等、実習がある。これが大の苦手。これでは駄目だ。進学するしかないな、と決意しました。
世田工の時代、行き帰りに通る成城の町には、俳優の三船敏郎さん、建築家の丹下健三さんのお宅などがあって、違う景色の町でしたね。
一方、日本社会を見渡せば、多くの人々は地味で黙々と働く労働者です。工場の労働災害もあります。それで、労働者の立場を守る労働弁護士になりたいと思って、司法試験を目指すことにし、浪人して、早稲田大学の法学部に進学しました。早稲田大学では、大隈奨学金制度があり、学費が全額免除になる。苦学生にとっては、ありがたい制度でした。
―学者の道に進まれたのですね。
司法試験の勉強をするうち、自分には交渉や訴訟によって具体的な物事を解決する弁護士より体系的に学問研究する方が向いていると気づき、司法試験は止めて、大学院に進学しました。
大学院では、篠塚昭次教授の下で、民法を学んだため、土地の所有権、利用権に興味を持ち、助手に採用されました。3年間の任期でしたが、給与も出ました。
助教授の時、シェル石油の奨学金をもらい、ロンドン大学に留学、法律の研究所に通いました。契約法、土地・住宅法、区分所有に関係する法制度なども勉強し、帰国後もこの分野の研究をしました。
(私の知人で國學院大學の岡田康夫教授は「早稲田大学で、住宅問題を内田先生から 学んだが、厳しい指導で、私の財産になっている」と振り返っている。)
―留学時代の楽しい思い出はありますか。猛勉強の合間、教授や勉強仲間から、ホームパーティーに呼ばれることがありました。イギリス人はホームパーティー好きで、時々開いて楽しく歓談するのです。出された家庭料理はいつもおいしかった。
ロンドン大学法学部長のホームパーティーに呼ばれていた留学生は私とニュージランドからのマルコム・グラントさんで、彼とはその後も親交を続けてきました。マルコムさんはケンブリッジ大学副総長を経て、ロンドン大学学長になられました。
―アメリカでも研鑽されましたね。
40歳になるころ、アメリカのミシガン州にある、カラマズーカレッジに1年間交換教員として「日本の法と社会」についての授業をする為、赴任しました。この大学で授業し、近辺の大学でも日本の社会、政治、法制度などについて話をしました。カラマズーカレッジは、リベラルアーツの大学です。リベラルアーツは一口に説明するのは難しいのですが、民主主義社会を支える市民を育成するため、知識の習得よりも学問研究の方法、物の見方を養う教育、物事の本質を洞察する力を身につけさせる教育です。ここで私は授業の傍らリベラルアーツを学びましたが、このことは早稲田大学に戻ってグローバルな視点から学問研究や教育の施策を進める上で、大変役立ちました。
―世田工の付属中、高校の6年間は無駄な寄り道でしたか。
そんなことはありません。親に後押しされ進学一辺倒で育っていく者ばかりではなく、様々な家庭環境、教育環境の中で、苦労して社会に出て行く者を間近に見たことは、今になってみると大変貴重な時間でした。その後の学問研究を続ける中で、いつも生かされています。
―奨学金制度は貴重でしたね。
先に触れましたが、大隈奨学金で授業料が免除になりました。一方で日本育英会の奨学金も貰いました。奨学金が出ると、本を山ほど買いました。
向学心に燃える有為な人材を経済的に支援する奨学金制度は、活力ある明日の社会を築くための投資でもあり、もっともっと拡充されるべきでしょう。
―ご趣味はなんですか。
本を読むのは、好きですね。活字中毒ですね。運動もしますが、これといって決まったスポーツはしていません。
―今は何をなさっていますか。
香港にあるアジア次世代奨学金プログラムを実践する「Bai Xian Asia Institute(百賢アジア研究院)」のプレジデントを今も務めており、また早稲田大学の国際化についてのアドバイスもしています。
―学者人生を振り返っていかがですか。
もう75才になり、すでに大学は退職していますが、永く教授をつとめたことで、名誉教授にさせていただきました。運良く、大学の先生になれて、これまで好きなことを勉強して、若い学生と知り合い、交流できたことは、とても良かったですね。
第2回 小浜賢治さん
2020年からの、コロナ堝による演奏活動への打撃について、団長の小浜賢治さんに10月はじめ、成城学園駅そばで、お会いし、2時間余、話を聞いた。
例年、年間10~20回のコンサート、イベントに出演していたが、ほぼ全滅状態になった、という。イベントだけでなく、演奏技術を維持するため、練習が必須だが、3年間で、通常160回ほどの練習の予定のうち、50回が中止になった。それでも、なんとか練習を続けるのは、小浜会長によると、演奏技術の低下を回避したいという思いからだ。 感染対策は、とりわけ涙ぐましい。
手指消毒、体温測定、休憩時間を設け、練習会場のスタジオの入り口と、非常ドア口を、開放、送風、終了後にスタジオ器財、譜面台、床などを消毒、また、解散後の会食禁止なども徹底している。また、基礎疾患のあるメンバー、同居家族に要介護者がいるなど個別に感染防止対応が必要なメンバーは、任意参加として安全確保を講じている。
11月23日に、リサイタルを計画。ビッグウイングとしては、久しぶりのリサイタルを11月に計画。小浜団長は、祈るような思いで実現に思いをはせている。

11月23日(水・祝日)
会場:座・高円寺2(BF2)
高円寺駅北口、徒歩5分(環状7号手前)
15:00開場 15:30開演
前売り1,500円、当日2,000円
問い合わせ・ご予約
電話 03-3323-5839

第1回 小林正夫さん
トップバッターは、民主党参院議員として永く活躍され、このほど、引退された小林正夫さんです。何度かこれまで、参議院議員会館におたずねしたことがありますが、いつも穏やかな笑顔で接していただき、こちらの緊張が自然に緩む、という方です。東電労組中央書記長を経て、政界に入られ、活躍されましたが、電力の労働現場は、事故や危険作業が多く、労働災害が多い職場だが、議員として労災事故対策に取り組み、国と真正面から交渉するなど、全力で取り組めたことがよかった、と強調していました。
小林 正夫 (こばやし まさお)
昭和22年5月11日、東京生まれ
昭和41年 世田工電気科卒、同年東電入社
昭和56年東電労組南電力所支部書記長

平成9年東電労組中央書記長
平成14年関東電力関連産業労働組合総連合会長代理
2004年の第20回参院通常選挙に民主党公認で比例区から出馬、初当選。2010年の22回の参院通常選挙で再選。参議員厚生労働委員長などを経て、2011年9月、管第一次改造内閣で厚生労働大臣政務官に任命され、管第2次改造内閣まで務めた。2016年、第24回、参議院通常選挙で3選。2018年5月、民進党と希望の党合流により、結党された国民民主党に参加、副代表に就任した。2022年7月投開票の第26回参議院通常選挙には立候補せず、3期18年で引退。8月、党顧問に就任。

連載「川上が聴く!」
| 取材日 平成26年5月7日 ゲスト 小浜賢治さん(64)(世田工20期、機械科) ビッグウイングジャズオーケストラ バンドリーダー 聞き手 川上湛永(世田工13期、機械科 元朝日新聞記者) (川上) 世田工OBには、変わり種が多いのですが、なんとジャズオーケストラのバンドリーダーですね。 世田工のころから、音楽をやっていた? (小浜) 世田工付属中2年から、吹奏楽をやっていてトランペットを吹いていました。 (川上) ジャズは、大学(中央大学・理工学部)に入学してからですか。 (小浜) 大学に音楽研究会があって、大学公認で、クラシックから軽音楽まで全部の音楽団体が参加しています。 その中に、スイングクリスタルオーケストラというフルバンドあって、そこに参加しました。 レベルの高いバンドで、70年代に東京放送が主催した第1回大学対抗バンド合戦で優勝しています。 (川上) そこでジャズづけに? (小浜) 大学に入ったのですが、大学紛争のまっさかりで、ロックアウト状態で授業はありません。 8月くらいにようやく授業が始まったと記憶しています。 5月頃、スイングクリスタルオーケストラに入ったので、ロックアウト中も、理工学部の校舎には体育系の合宿施設があって裏門から出入りでき、そこに音楽研究会の練習場がありましたので、そこで練習の毎日でしたね。 (川上) いまのビッグウイングオーケストラは、小浜さんが作ったんですか。 (小浜) いや、自分が卒業した年につられたのですが、創立者が5年目に大阪に転勤されまして、私が引き継ぐことになりました。 今年で結成41年目です。 (川上) 息の長いバンドですね。 すごいですね。 (小浜) 当時、あの渡辺貞夫さんがアメリカ・バークリー音楽院留学から帰国して、プロがビックバンドを勉強しようと集まったフルバンドがあって、それをヤマハがずいぶん応援していたのですが、そのアマチュア版をつくろうという話が出て、それでできたのがビックウイングオーケストラなんです。(川上) ヤマハが力をいれてくれたのですね。 (小浜) 競合するバンドはあったようですが、ヤマハがテコ入れしてつくったのは、多分東京ではビッグウイングオーケストラだけですね。 毎週木曜夜の猛練習 (川上) メンバーの編成は。 (小浜) 20名前後ですね。 トランペット4、トロンボーン4、サックス5、ベース、ドラムス、ピアノ、ギターがそれぞれ1、ボーカル1、それに司会が1です。 日本のビックバンドは、学生のころから、カウントベーシーとデュークエリントンという2大巨星がいて、大きな影響を受けていますが、わたしはデュークエリントンに魅かれていて、演奏スタイルも目標にしていました。 もちろん、そればかりではなく幅広い演奏をやっていますけど。 (川上) 演奏機会は、どのくらいですか。 (小浜) 年間12回前後ですかね。 (川上) 練習しないと、レベルの維持が大変ですね。 (小浜) 練習は毎週木曜の夜、大手町にある中大の先輩のスタジオですね。 20時から2時間練習します。 オーストラリアとのジャズ交流続く (川上) メンバーは、中大が多いのですか。 (小浜) 多いですが、早大、日大、明大、上智などの卒業生もいます。 みんな大学でビックバンドをやっていた方ですね。 67歳が一番年上ですが、20代もいますよ。 みなさん、会社務めなど仕事をもっています。 ピアノは、実は女房です。 中大で1年下でした。 途中、子育てで中断しましたが、7年前に復帰しました。 (川上) 海外公演も続いているそうですね。 (小浜) 1989年に浅草ジャズコンテストがあって、優勝しました。 副賞にオーストラリアとニュージランドへの旅行がありました。 オーストラリアのマンリー市と浅草は姉妹都市でした。 マンリー市で主催するジャズフェステイバルに出演させていただいて、それ以来交流が続いています。 もう6回出演しました。 最近では、2012年に行っています。 いつもフェステイバルのメーンステージで演奏させていただいています。 (川上) さすが、実力派バンドですね。 こういう交流は大切にしたいですね。 ところで、最近の日本のジャズの環境について、どうみていますか。 (小浜) ぜんぜんよくなっていないですね。 一握りのメジャーなひとだけに注目が集まっている状況は変わらない。 (川上) 今、日本で目標にするバンドはありますか。 (小浜) ビックバンドでいえば、むかしはプロのバンドがたくさんありました。 いまはどうですかね。 アレンジャーが、自分で譜面を書いて、メンバーを集めて作っているバンドはたくさんあるのですが、そのメンバーたるやあちこちからのかき集めです。 ステージも少ないので、十分な練習ができないので、コンサートに行くと、個人個人はうまいんですが、アンサンブルの個性はいまひとつという感じですね。 (川上) どうすれば打開できますか。 (小浜) 演奏する機会が激減しているのが響いていますね。 テレビやラジオで、昔は、ビックバンドが歌手の後ろで演奏していましたが、そういう機会だって彼らには大事な音づくりの場だったのに、今はほとんど消えました。 (川上) アマチュアバンドとして、目指すものは? (小浜) 私たちは、しょせんアマチュアです。 プロになるひとは、楽器そのものを吹く基礎ができていますよね。 最近の学生バンドも、昔と比べたらうまくなっています。 そういう人たちが、プロになっているから、アマチュアでは何年たっても追いつかない。 そこをどうやって埋めるかですね。 練習プログラムをつくりながらやっています。 なるべく停滞しないように。 (川上) 改めて練習が大事ですね。 (小浜) 隣のひと、隣のセクションからでている音に対して、自分がどういう音を出しているのか、聞きながら吹くという、そういう部分を忘れがちですね。 それをやらないと、ただ譜面を読んで吹いているのではハーモニーがきれにならないですね。 (川上) ところで、日本のジャズを変えるには。 (小浜) 日本とアメリカの大きな違いは、アメリカには大学に音楽学部がほとんど設けられている。 音楽も産業だという認識ですね。 日本にはないですね。 日本では、音楽は道楽ですから。 文化的にもアメリカやヨーロッパに追いつこうとまったくしていない。 どこかで突き抜けないと、日本のジャズは変わらないですね。 ホームページ作成のプロ (川上) ジャズの話ばかりお聞きしましたが、ビジネスの話を、聞かせてください。 (小浜) 中央大学を出て、日本マランツ(スタンダード工業)に入社、ステレオの会社です。 超マニアックは会社でしたが、そこに7年務めて、ビデオディスクの開発に来ないかとトリオ(現ケンウッド)で、研究開発業務を担当しました。 研究開発のマネジメントを経て、辞めるときは社長室で、会社再建です。 2002年に退社しました、それから独立しました。 (川上) ホームページの作成を多く引きうけているそうですね。 (小浜) そうですね、現在は60件くらいになりますね。 制作とメンテナンス。 自分のバンドのホームページを作ったのが最初で、かなり早いほうでしたね。 ビッグウイングオーケストラで検索していただければ、のぞけます。 (川上) ホームページのこつは。 (小浜) 検索エンジン対策で、ソ-スコードにディスクリプションとかキーワードとか、こういうことが書いてありますよという宣言することが基本ですね。 それがちゃんと本文のページをめくれば書いてあるということが検索で上位表示されるために大事です。 グーグルとか検索エンジンが一番恐れるのは、スパムサイト(悪質サイト)が、検索エンジンで上位にランクされることです。 ページをめくったら、写真しかないとか、それではいけないですね。 今、スマホ用のホームページにも力を入れています。 小児科医のホームページはお母さんが50%以上、スマホで見ています。 パソコン用のページでは見にくいし、情報量が多すぎて不向きだから、古い情報、ニュースを落としてゆく。 スマホは、電波状況が悪いと、それだけでどんどん料金がかさみますから、それを配慮して作っています。 |


連載「川上が聴く!」
| 取材日 平成26年1月23日 ゲスト 総合工科高 石崎規生 校長 聞き手 川上湛永(世田工13期、機械科 元朝日新聞記者) 世田工が廃校になり、その後に創設された都立総合工科高の石崎規生校長(49)を平成26年1月23日に訪ね、約1時間懇談しました。 来年10周年を迎え、記念式典を行うこと、5期生の卒業を期に同窓会が結成されたことなど最近の状況をお聞きしました。 (川上) 昨年4月に就任されました。総工はいかがですか。 (石崎) 三鷹中等教育学校の副校長から、総工校長として就任しました。 世田工とは、縁がありませんでしたが、やることが山ほどあるので、どうこなしてゆこうか、と思っています。 (川上) 同窓会のメンバーとよく話すのですが、世田工は「工業高校の日比谷」といわれたもんだ、と。同窓生のプライドは高いですよ。 (石崎) 現在、3学科6類型で、在校生は600名です。 過去には変遷があったようですが、今は機械・自動車が、一番競争率が高く、人気です。 (川上) 大学進学率も高いとうかがっています。 (石崎) 進学を目指す生徒が昔と比べたら、多いですね。 昨年も210名の卒業生の内、40人が4年制大学に進学しています。 東海大、日大などに進んでいます。 (川上) 就職の方はどうですか。 (石崎) おかげさまで、引く手あまたで100%ですね。 (川上) 野球部が100名規模とお聞きしました。都立では最大ですね。 (石崎) 100名以上の部員がいます。 生徒数600名のうち、100名が野球部ですからね、都立城東高が1999年、夏の甲子園に都代表で出場しましたが、そのときの有馬信夫監督が、熱血指導しています。 有馬監督人気で、野球部志望が急増しました。 このところベスト16とか頑張っていますが、ぜひとも優勝して甲子園に行ってもらいたいです。 過去、都立高から国立、城東など3校が甲子園に出ていますが、普通高です。 工業系からは出ていないので、行かせたいですね。士気が上がりますよね。 (川上) 実は、私は、世田工13期生で、早稲田大学政経学部に進学しました。 卒業して、朝日新聞社に入り、記者になったんです。初任地が青森県でした。 1986年、夏の甲子園で三沢高が、初めて甲子園に行きました。 チームワークがいいのと、エースの太田幸司君が素晴らしく、春の選抜、夏の大会と3回連続出て、1969年の夏の大会で、あの松山商業との決勝戦18回引き分け、再試合という歴史的名試合を戦いました。 準優勝でしたが、いまでも名試合のナンバーワンに上げられますね。 あの三沢高は、三沢市内の中学からそのまま、三沢高に進学した子らがほとんどでした。 あの決勝戦の相手の松山商のエース、井上明君は、明治大学に行って、その後朝日新聞記者になりました。 何度か、決勝戦の事を聞きましたが、コントロールには絶対の自信があったので、負ける気はしなかったと話していました。 (石崎) 懸命に励んでいる子らの夢を実現させたいと思っています。 有馬先生がいる間に、実現させたいですね。 実は、昨年のプロ野球ドラフトで、総工出身で、創価大に行った石川柊汰君が、ソフトバンクの育成枠の1位指名を受けました。 183センチ、80キロ、ストレートは149キロです。 ぜひ、一軍に上がってもらいたいと期待しています。 総工で、初めてのプロ野球選手です。(参考) 過去に世田工からは、1974年、読売巨人軍からドラフト3位指名(1位指名は定岡正二投手)を受け、捕手として入団した「倉骨(現、宇田川)道広」(世田工23期機械科→東農大)がいる。 (川上) OBとしても、応援します。 総合工科高は、来年10周年ですね。 (石崎) そうです。 早いもので、10周年です。 大げさではない記念式典を開きたいと予定しています。 (川上) 同窓会として協力・支援をさせていただきます。 (石崎) ありがとうございます。 総工も5期生まで卒業生を出して、実は同窓会ができました。 会長は、日本工業大学大学院博士課程の駒込實紀君です。 世田工同窓会と連携をとっていただくとありがたいです。 世代は違いますが、連携で在校生を激励していただきたいですね。 (川上) 私たちの世代から見れば、孫みたいな世代ですが、連携をとって、現役を応援する態勢を作りたいですね。 連絡を取らせていただきます。 本日は、どうもありがとうございました。 |
インタビュアー:川上湛永(世田工同窓会長)(世田工13期、機械科 元朝日新聞記者)